anjoe375のブログ

375、あんじょ〜のブログです。

シュタイナーとの出会い⑨

〜日本発信のシュタイナー〜

初めて参加したテオゾフィー(神智学)の読書会で、自分にとっても必要なものだ!と直観出来たのですぐ鈴木さん訳のシュタイナー本を読みたくなり、その当時出ていた“自由の哲学”(鈴木さん訳としては2訳目)の私家版の本を即買いし、私の亀スピードな読書生活が始まりました。

当時はかなり移動の多い仕事をしていたので、移動の最中に難攻不落の“自由の哲学”に挑戦しては遭難し、挑戦しては遭難してましたが、一歩一歩登れる?読めるようになって行きました。鈴木さんからは動詞の動きを注視してという言葉があったのですが、私はまだそんなレベルにはいけず、助詞、助動詞、接続詞レベルを徹底的に見てました。私の最初に買った“自由の哲学”は、読み過ぎ、書き込み過ぎでボロボロなんですが、その当時の自分の格闘が目に見えるように、助詞や助動詞、接続詞などに書き込みが沢山してあって、このセンテンスがどこに繋がるのか、同ステップを踏んでいる文章なのかというのを丁寧にみました。小学生の子どもが文章をつたなく読んで行くような形で、必死に読んでいました。一行読んでは考え、一行読んではまた考えてと本当亀の歩みのようなスピードだったので、章とか一冊としての俯瞰が未だに苦手で、人にもパリッと説明出来ないし、俺大丈夫か??と心もとなさもありましたが、確かな歩みを歩んでいて、毎度毎度自分としてはとても手応えのある読みを出来ていたので、誰に言われずとも続けていました。 

今考えると、鈴木さんの話を分からないという人に比べたら、自分はとても学が少ないというか低かったのと、なにか直観めいたものが働いたのが功を奏していました。自分が好きな音楽とかって直観的に好きですよね。これ!って誰に言われるまでもなく自明に好きですよね。だから勉強してますって感じは全く自分にはなく、すごくはまってる音楽を飽きずに聴いて,自分でも歌っちゃったりしてるような感じで読んでました。 

面白いのはシュタイナーいいですねって言う人って結構学歴しっかりしてますよね。やっぱりシュタイナーに出会うのに活字からということになると、基本知的な方向からになります。今に続く昭和の学校教育の知性ということにまつわる刷り込みをやっぱり受けている方が多い。自分で考えて知性を育むというより、権威とか伝統を受ける形で知性を営む場合が多いですよね。美術館でみんなが解説や年表とかにたむろしてる感じで、なかなかこういうものは拭うのが難しい。ドロップアウトしていたわたしとしては、やっぱりそういった日本のスタンダードな教育を適当に受けていたのはよかったな。

シュタイナー教育もその一つですが、その場を体験したり、共有したりするところからのシュタイナーへの接点をもっともっと生み出したい。ちょっと突拍子もない話ですが、私、シュタイナーが世界へ広がるのは日本発信のシュタイナーだと確信してます。車もテレビも日本から世界に広がったように。生活の中に浸透させる力を私たちはもってます。それをシュタイナーでも活かしたい。一般化して広くやると内容が薄まるみたいなことも言われるんですが、そこが狙いなんです。どんな業界も込み入ってやっている人はごく一部。その層を意識的にも無意識的(基本こっちですが)にも支える層が多くないと話にならない。特に知的に込み入ってやる層は人の脳神経系と一緒で一番燃費食いますから下支えが欠かせません。

 それではまた明日。

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