anjoe375のブログ

375、あんじょ〜のブログです。

未来の学校をつくる

 明日、和歌山での学校設立に向けてのキックオフ会があり、いろいろご縁があってそこに参加します。

 

 学校設立の活動ってものに若い頃から関わってきたんだなぁと改めて思い出しますが、シュタイナーハウス界隈で始まった学校設立準備会というのに関わったのが1996年頃でしたから20年も前からそれなりに学校ということを考えていたんだなと思います。

 

 今では3児の父ですし20年間、シュタイナー的なものの社会実践を試行錯誤してきたので、表向きはいろいろ変わっていますが、初めの直観はぶれていないかなと思います。

 

 私はそもそもシュタイナーの考えにとてもこころ打たれて、この業界の足を踏み入れたので、教育という切り口100%で足を踏み入れたのではなかったのですが、どうやってこういった考えが広まったり深まったりするのだろうと考えたときに、それは仕事の現場で広く、深く育つはずだと直観していました。同時シュタイナーの社会実践といえばシュタイナー教育がメインでしたので、そういった方向で学校の営みに関わりたいと思い、様々な方々と出会って行きました。その当時早速直面したのは、現場感の薄い、理念先行の方々が往々にして会を主導していたこと。はっきりと一言で言えるんですが、単純にその会やグループの雰囲気がいい感じではなかったこと。他者を受け入れるウェルカムな雰囲気がなかったことです。外野からみたらシュタイナーやアントロポゾフィーという宗教を信奉している人たちが学校を作ろうとしてる、そんなような雰囲気でした。

 そんな中、私や仲間で試行錯誤しましたが、力及ばず、学校との関わりや社会実践とはひとまず関わりがなくなりました。23年クールダウン期間をおいて、また関わりはじめました。クールダウン期間時にひとりで読書するなかで、やっぱり自分の方向性は間違っていない、自分が退く必要はない、もう一度チャレンジしようとシュタイナーハウスやフォーラムスリーに足を運ぶようになりました。

 

 引き続きの試行錯誤のなかで、アントロポゾフィー協会の理事、フリーペーパー375の立ち上げ、教員養成講座の運営など、今に至るミッションに出会いました。

そこでの活動の軸はまさに関心がある人に対してウェルカムな環境を作ることでした(協会での活動だけはほんとうに実りが薄く忸怩たる思いです)。

 

 375がわかりやすいですが、歴史的にグループの分裂が継続しているシュタイナー業界でどう共に進むことができるのか、ということが名前の由来でみんなでゴーを数字にして375が生まれました。和歌山のモモの会との出会いも375が大きかったと思います。

 

 教員養成講座ではスタッフチームでよく出ている言葉が「いい雰囲気」という言葉でした。文字通りウェルカムな雰囲気ですし、人が学び成長する雰囲気、非常に実のある、実のある雰囲気を共通認識として持てていたのがとても功を奏したんだとおもいます。そんな土壌に力を持った講師陣が講座を展開する、非常にいい結婚がこの教員養成講座ではできていると思います。毎回受講生の方々同士、私たちも含め、いいご縁をいただいていると実感します。

 

 そう、この雰囲気を持って学校運営できれば!!ほんとそう思います。

 

 ただこれはとても難しい。それはレストランであればコックさんとお客さんの間にいいフロアマネージャーが不可欠のように、学校にこのフロアマネージャー的な発想をいまだかつて持てていないことです。

 

 教える教えられる。その現場の土壌を豊かに保つ人が必要なんです。シュタイナーはこれも教師の仕事と考えていたんだと思います。ただ私が思うには、教師という職種に付こうとする人の多くが、実社会の経験が少なかったり、政治と一緒で親が先生や家族が先生や役所勤とかそいういう方向性が強いんだと思うんです。いわゆる公務員的な世界と、実業的な世界の橋渡しをすることがこれからの教育現場にはとても強く必要になって来ます。私たちの時代が牧歌的な世界から抜け出て、いままで考えもしなくてよかった種類の困難を多く抱えていて、それに対峙するにはひとりの人が教育によって今以上に育まれる必要があります。もっともっと社会性がひとりの人に必要とされて来ています。

 

 このフロアマネージャーは多分親がしていくんだと思います。ただそこを専門にする職員も必要かなと思います。今PTAを改めて考え直す動きがありますがそれも方向性は同じかなと思います。

 

 親が子どもの教育に仕事として関わっていくこと。ここがこれからの社会は必須です。そこの大きな鍵は、学校というくくりの中では、自分の子どもも他人の子どもも同じ家族のような対し方ができること。親のエゴを学校というくくりの中ではでしっかり客観視できること。それが、パレートの法則でないですが、親の二割、三割確実に必要になってきます。

 

 

 自分の相方が長女が年長さんの時、クラス運営でとても苦しい状況でした。その際、親のエゴを客観視出来ない、園と家庭の境界線を意識出来ない親が多数派だったのがその原因でした。去年長男の年中のクラスではそこが逆転で、園と家庭の境界線を客観的に見れる親が多数派だったんですね。ですから幾つか阿多難題にもチームプレーで取り組めていてました。今学校教育が大変っていいます。それを学校や国、先生に矛先を向けるケースが多々ありますが、いちばんダメージを与えられるのは親なんですよね。ここを踏まえてどう学校を作って行くのか。社会はこの課題を突きつけられていると思います。

 

 先生に問題があった場合、多くの大人が関わることで、ある程度客観性をもって判断を下せるケースもあると思いますが、親に問題があった場合、そこに介入していくことはとても難しい。先生は仕事で関わっている。親は生活の一部として子どもの学校生活をとらえている。ここは親も学校というくくりでは生活を抜け出して、社会の一員として関わる必要があります。ここのところの適性を問うことは私たちの社会ではありません。こういったことこそ、義務教育で必須科目だと思うんです。話は飛躍しますが例えばPTAって親だけでなく、その地域の子どもを持たない成人が関われるとかっていいとおもうんですよね。

 

 意識的な親の存在がこれからの教育現場の鍵になってくると思います。

 

 そんな中で、親がシュタイナーを信奉するような、依存するような形でなく、子ども向き合おうとしています。そんな試みが和歌山のとある場所で始まっている。私はとても期待しているし、私もどことなく期待されている部分があるので大いに期待に応えて行きたい!明日の会をとても心待ちにしています。


あんじょ〜

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