シュタイナー学校をつくるということ①
〜7月に和歌山のモモの会(こども園ほしの子)でお話する時に準備したメモを元に書いています。〜
シュタイナーって面白いな〜と思うところに、一番最初のところ。前書きとか、シュタイナー教育の始まりになった講演録の”普遍人間学”で言えば“挨拶”のところにあたりますが、かならずOverviewが入ります。講演録なり、著作の大枠をぎゅっと話されたり書かれたりします。
"普遍人間学"もご多分にもれず“挨拶”のところがとても印象的です。
まずはシュタイナー学校、ヴァルドルフ学校を作るということは、わたしたちを、わたしたちの社会を耕す行い、行為ですと言います。
わたしたちを耕す、わたしたちの社会を耕す。もちろん誰もが、どんな社会でも、それなりにこのプロセスのただ中にいます。でも、まさに耕して行くんだということを知っている、分かっているということ。分かった上で耕して行くということがシュタイナー学校を作ることだと言います。
シュタイナーを学んでる方であればどこかで今の時代は意識魂の時代なんて話を聞いた事があるかと思います。そこを、”意識魂の時代”のような名詞の形、固定化された形ではなく、語りかける中で、動詞的なものいい、動きのあることばとして語っています。
それではシュタイナー学校、ヴァルドルフ学校の耕す、とはなんなのでしょうか?シュタイナー学校、ヴァルドルフ学校に特徴的なものとは。それは人であることのまるごとが求める、その求めどおりに教育をする、授業をするということです。
この人であることの丸ごとというのは、妖怪人間ベムの台詞じゃないですが「早く人間になりたーい!」のことば通り、わたしたちも未だ目にしていない、わたしたちのこれからも含めた大きな人間のあり様を指しています。
この語りも「わーっ!」と思うんですが、長いことシュタイナーの界隈にいますと子安さんの「ミュンヘンの小学生」を読んで自分もシュタイナー学校のような学校に行きたかったと言われる方に、ほんとうに沢山出会います。もちろん自分もそのひとりでした。
人であることのまるごとが求める教育。それをシュタイナー教育に予感、実感する方が、沢山いるんです。人であることのまるごとって言われても???ですが、それを多くの方が実際には予感している。そういう意味ではシュタイナー学校は本当の意味でこれからの教育としてわたしたちの前にあるんだと思います。
人ってことの全体像への予感というもの。こう書くとなんだか難しい感じですが、どんな人も誰しも、何となくきっともっているものなんじゃないでしょうか。そこのところをぐぐっと刺激していきたい!そんな想いでシュタイナーに関っていますし、気さくな感じで世界中に浸透してもらいたい。
シュタイナーはわたしに取ってはとても大きな人物ですが、これが広がるにおいてはシュタイナーの名前はちょっとじゃまかな。誰しもがもっているもの何だから、冠に人の名前はいらないですよね。シュタイナーが学校の名前にヴァルドルフ学校なんて設立者の一人のモルトさんの会社の名前を冠に据えている感じにもそういうところを感じます。こういうネーミングひとつからしてシュタイナーは面白い。
それではまた明日。