シュタイナー学校をつくるということ⑥
〜理想から自由になる〜
妥協ということばを巡っていろいろ書いています。というか書くことがたくさんあります。それというのもまさに現場での行動というのは理想をどう現実に落とし込むかというところで決まりますので、妥協について日々考えているということです。
妥協ということばってネガティブな感じも多く持っていますが、様々な人が関る社会ではお互いの妥協点を建設的に見出すこと無しには、ものごとは進みません。社会というものの中で妥協は生活に普通に有りますし、「政治とは妥協である」なんてことを言った学者さんもいるそうですが、社会を司るのにどのように妥協点を見出せるかということは社会の生命線でもあると思います。
この妥協という部分では、個々の人が、自身の持つ理想に対して、充実した付き合いがあること。自分がいいなと思うことにたいして沢山考えたり思ったり行動に移していることで、理想との関係が出会いから始まって、充実した関係をもっていること。関係性が豊かであることはとても重要です。
やっぱり本を読んで理想の何たるかを日々日々理解するのも大事だし、同じことをいいねと思う人と実際会って話して喜怒哀楽を共にするのも大事だし、その理想を実際に行動に移して他者に、地域や社会に働くことから表現することも大事。自分の仲間や、同僚や家族との生な関係で育まれる充実した関係性と同じように、理想とも関係を深められるのは幸運のひとつだとおもいます。
そして理想に対しても多いにリスペクトをもつのと同時に自由に相対せること。自分という存在が理想という権威の下にあるのでなく、理想と手に手をとって共に進んで行くこと。
理想に対して自由にあれる。そういうあり方を目指すこと。シュタイナー学校のように教育機関を目指そうとする組織においては、わたしたちの社会でも五本の指に入る公共的な場としての学校をつくるわけですから、シュタイナー教育とはいえひとつの理想に縛られる分けには行きません。やはりここでもシュタイナーが設立に関った最初の学校に自らの名前でなくヴァルドルフの名前が付いたのはとても象徴的だと思います。
あれはシュタイナー教育じゃない、シュタイナー学校じゃない。そんなことばを長年見聞きしています。気持ちも分からない訳ではないですが、やはりそこの部分って挑戦しないとダメになる。日本の企業がバブル以降鳴かず飛ばずなのと一緒で、出来上がったものにしがみついている形には未来はないです。対象から自由になるというのは、対象と自分とその環境を熟知してこそです。シュタイナー教育ってなんだろう、自分ってなんだろう、そして今という時代ってなんだろう。
ひとりの人が今の時点で、それらに対して、これっていう自分のことばをもっているかいないか。正解なんっていらない。その人から湧きだすことばがあれば十分なんです。ことばが湧いて欲しい。
それではまた明日。