anjoe375のブログ

375、あんじょ〜のブログです。

学校変わらなきゃ!?③


子どもも大人も学ぶ学校

公教育が難しい要因としては、

①公教育の制度設計が時代遅れになっていることと

②学校や先生への権威の低下

③親の教育参加の負の面

が引き起こしています。

富国強兵時代のファンダメンタルが校舎や前ならえ的な所作、運動会などの行事にまだ色濃く残っています。

相応しくない権威を引きづり下せてせいせいした感はありますが、学校の安定性は同時に揺らいでいます。モンスター的なクレームをあしらえなくなっている。

親の教育参加もルール無用で、よく出ているところと同じく悪く出てるところもあります。良い場合はあまり注目されないのですが、悪い場合は学級崩壊などにもつながり目に見える形になるのが分かりやすいですね。ただポジティブな面は多分にあるのですが、見えずらい、分かりずらいということも言っておきます。

今の時代を生きていくひとり一人のポテンシャルを最大化するような設計出なく、画一的であったり平均的な人を育てていく方法論しか持っていない。国を強くするための人育て。その人自身のポテンシャルを伸ばす、活かすという方向は基本設計としてはありません。

基本設計がない訳ですから、土台から作り変える必要があります。

まずは先生が公務員であることをやめること。先生というプロフェッショナルになる必要があります。プロ野球の選手同様実力主義です。もちろん若い方、先生になられたばかりの方の育成機関も兼ねます。こういった学校が出来始めの頃は、プロといってもまだまだ萌芽でしかなく、先生という仕事においてどういったことが大事なのかということを常識化する時間が10年20年必要だと思います。それまでの間は、先生、親、自治体の教育担当者、アクティビストみんなで先生という仕事を再設定していく時間になると思います。

雇用側は誰になるのか。これは親と学校の所在する地域、黎明期にはこういった教育制度を実現させようとする活動家が加わった人の集まりが運営母体になります。国は地域と法律を通じて間接的な関与になります。

先生同様、親もそれなりなハードルを要求されます。これはどうゆうことかというと、教育、とりわけ学校での教育においては、自らの子どもと共に学ぶ子どもにたいして、自らの子どもと同じように思える、扱えるかということです。  

もう一点は子どもの成長ということに対して科学的な側面から客観的に教育というものを見つめる知識や知恵を持っている、持とうとしているということです。こういった親が立ち上げの中心である必要があるとともに、こういった親と持続的に出会う方法を仕込む必要があります。

全員の親がすべてこういった親である必要はなく、親の2〜3割程度でいいかと。立ち上げ時は自然と割合は高くなると思います。

一見非常にハードルの高い話ですが、親の世代、特にお父さん方は、先行きの見えにくくなった現代の状況で、子ども学校を通じて会社とは別な生産的な人間関係ができることは多分にウェルカムだと思いますし、学校作りを通じてのマネジメントの観点、今とても大きな分野になってきている、コンプライアンス法令遵守)やリスクマネジメントの生きた事例を学ぶ等、キャリアとしてもとても魅力的なことだと思います。何よりも人材育成、若い世代の育成という意味では、親として社会人として、お金を出しても得られない自身の教育現場にもなり得ます。

今の社会では例えば、会社の経営などは、その仕事に携われるパイは、みんなの分はありません。大企業は30代半ばで幹部候補か否かを選別されます。新しい学校を作ろうみたいな、いわゆる社会活動、社会起業的な世界はそのパイを自分たちで設けることができます。そういった意味でも親にとってこういった活動は時間を必要としますが非常に有益なものになると思います。

こういった経営者意識をもって自らの仕事に改めて向かうことは、職場での仕事に必ず活きるはずです。

次回はプロフェッショナルな教師ということを突っ込んで考えたいと思います。と言いつつ親話をもう一回かも??

つづきます。
あんじょ〜
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学校変わらなきゃ!?②

20世紀後半の学校教育から21世紀の学校教育は変容が必須命題になる。まさに今の公教育の疲弊感はそこに大きなポイントがあります。

ただでさえ子どもたちとの信頼関係を築くのも一大事業なのに、それ以外に大きな難題を抱えている。ここにおいては個々の先生方の力に依るしかない。文科省から子どもとの信頼関係を築くサポートが積極的にでそうもないですが、せめて先生方のオーバーワークを減らす方策を実施して欲しい。

モンスターペアレンツが一人いたら、クラスや先生に取ってはかなり破壊力あります。厄介な子どもがいて親も先生も学校も持て余しちゃとやっぱりクラスには大打撃です。

先生はえらいもんだ、学校は大事なところだ。当たり前にあった先生や学校に対するリスペクト。これが学校に城壁のような守り手でした。この城壁が取り払われた今、誰が学校を守るのか。この守り手は先生、親、地域社会になります。じゃどうまもるかってこと何ですが、ここで大事なのは守らなきゃいけない学校ってそもそもなんだということです。

学校に通わせないホームスクーリングなんて教育の形も出てきました。既存の教育に納得行かない親がさらに一歩二歩進んで自分たちで教育やっちゃおうというところまできている。相応しい年齢に相応しい学びをとシュタイナー教育ではいいますが、こういうところだけみれば親は子どもの成長をよく見れてるケースも少なくないです。先生側から見たら、親が子どものことをよく見れてないというケースはよくあると思いますが、親目線だと今度は先生が子どものことを見れてないって話しになるケースも往々にしてあるものです。

じゃ親じゃなくて親でない先生と共に学ぶってなにが重要??と考えると学校でたくさんの大人に出会うということ、ともに通う子どもたちがとても重要なんだと思います。子どもは本当に大人も子どもも含めて人の背中から、ひとり一人の生きる姿勢を隣で見ています。

シュタイナー教育でいわれる7歳までは模倣を通じて、14歳までは権威を通じて、21 歳までは共に学ぶ大人のサポートを通して、学び、そのモチベーションになることが、7歳までは”すべてはよきかな”、”ここはめでたいとこ”っていう感じの中で、十全にその子なりのモチベーションを周りのものから難なく見つけられます。14歳までは、キラキラしてて、かっこよくて、うっとりしてしまうものやことがモチベーションになりますし、21歳までは、自分ってなんで生きてるんだろう?世の中なんでこんなに不条理なことが沢山あるんだろう?親兄弟、先生、友達、彼女、この人たちはいったい何者なんだろう?本当のことっていったいなに?みたいなことがモチベーションになると思います。

この3つの時代をみても、ひとりの大人の背中で学ばせるんでなく、沢山の大人や子どもたちの生き方、生きる姿勢から多くを学び取ってもらった方がその子の可能性は広がるはずです。

これは皆さんにも考えてみてもらいたいテーマですが、シュタイナーは教育の本質は自らが自らを育てる。本質的には教育は自己教育なんだって言ってるんです。これに関しては自らのこれまでを振り返えってひととき考えてみることはとっても有意義かと思います。

学校は、家族から出て、様々な人と共にすごす、そういうところに本当に大きな意味があります。子どもにとっては自分で人生を切り開いていく何かのきっかけが必要です。目を覚ます何かが。自分のエンジンに点火する閃光が必要です。そのきっかけになるような誰かと会う。子どもが大人になっていく中で豊かな可能性を提供する。学校は子どもが大人になる過程においてとても大きな可能性、必要性のある場所であることは、誰もがそうだと思えるんじゃないかと思います。今の学校に様々な問題や課題があるにしても、やはり大事な場所であることに変わりないです。

そんな場所をどう作り直し、守るのか。公教育が破綻して、明日から子どもを通わせる学校がなくなってしまって、親がどうにかしないといけなくなった。そんな視点から、学校をどう作り、どう守るかを考えていきたいとおもいます。

つづきま〜す。
あんじょ〜

PS 強さひきだすという言葉につられて毎朝飲んでいます^^
親って強さがいりますよね、、、
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学校変わらなきゃ!?

親になって、子どもが幼稚園や学校に通うようになって、まだいわゆるモンスターペアレンツには遭遇したことがないのですが、プチモンスターな人とはやっぱり会いますよね。

若い頃からシュタイナーに関わって、理想の教育だーってアングリーなヤングを謳歌できているころは気づきもしませんでしたが、21世紀の学校は親や地域が応援団じゃないという現実に直面しています。耳にしたこともあると思いますが、保育園を建てようとすると地域のシニアから反対されたりとか、、、。古きよきニッポン!!は何処へ行ったんだといわんばかりの帝国の逆襲ならぬシニアの反乱に突入しつつある超高齢化社会ってどうなっちゃうんだろう、と末恐ろしさを感じつつの21世紀10年代の日々であります。

私の子どもの頃の先生は、今に較べたら純粋に子どもの教育に向かうことのできる時間も環境もあったんだと思います。しかしながら21世紀の先生は、上から指示されるペーパーワークや親のクレーム処理を学級運営とともにこなさないといけない。サラリーマンと較べたらただでさえ始業時間は早いのに、学校をでる時間もサラリーマンと変わらない。そりゃ病気になる先生やバーンアウトしてしまう先生が多い訳です。特に公立学校は問題のある親や子どもにもう学校に来ないで下さいとはなかなか言えません。

さらにこれをいっちゃぁお終いですが、先生という職業の適切な評価基準ってないといっていい。先生同士の関わりもとっても難しい。まさに人間的なコミュニティー形成が出来ないとぎすぎすしやすいです。リスペクトされる仕事ぶりというものも先生、子ども、親それぞれ千差万別です。教育、特に子どもの教育は子どもの年齢が若ければ若いほど超長期投資なので、結果はすぐでない。結果が出たところで幼稚園の山田先生のお陰ですってなかなかならない。教育機関ほど人間的なコミュニティーを作ることが必要命題なところはないです。

21世紀の学校はそもそも事業体として今あげたような運営に困難な要素をすごく抱えています。先生は、学校はエラいもん!!と思えていた時代とはほとんど違う業界なんじゃないかというような環境になっています。学校というものがまさに社会性の高いコミュニティーである。ということがそれを物語るんですが、次世代を育む。ある人にとって都合のいい次世代だけでなく、全方位的に次世代を育むことが現代の特に21世紀の教育の核です。

教育機会のない子どもに教育機会をと、義務教育が始まり、日本で言えば義務教育は浸透した。次はその教育内容をさらにさらにと進めていく段階です。と思っていたら親と地域というエナミーが現れました。まぁそう簡単に私たちの営みは進展せず山あり谷ありなんですけれどもね。

強敵は倒してなんぼですので、果敢に行きましょう!

つづきまーす
あんじょ〜

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未来の学校をつくる

 明日、和歌山での学校設立に向けてのキックオフ会があり、いろいろご縁があってそこに参加します。

 

 学校設立の活動ってものに若い頃から関わってきたんだなぁと改めて思い出しますが、シュタイナーハウス界隈で始まった学校設立準備会というのに関わったのが1996年頃でしたから20年も前からそれなりに学校ということを考えていたんだなと思います。

 

 今では3児の父ですし20年間、シュタイナー的なものの社会実践を試行錯誤してきたので、表向きはいろいろ変わっていますが、初めの直観はぶれていないかなと思います。

 

 私はそもそもシュタイナーの考えにとてもこころ打たれて、この業界の足を踏み入れたので、教育という切り口100%で足を踏み入れたのではなかったのですが、どうやってこういった考えが広まったり深まったりするのだろうと考えたときに、それは仕事の現場で広く、深く育つはずだと直観していました。同時シュタイナーの社会実践といえばシュタイナー教育がメインでしたので、そういった方向で学校の営みに関わりたいと思い、様々な方々と出会って行きました。その当時早速直面したのは、現場感の薄い、理念先行の方々が往々にして会を主導していたこと。はっきりと一言で言えるんですが、単純にその会やグループの雰囲気がいい感じではなかったこと。他者を受け入れるウェルカムな雰囲気がなかったことです。外野からみたらシュタイナーやアントロポゾフィーという宗教を信奉している人たちが学校を作ろうとしてる、そんなような雰囲気でした。

 そんな中、私や仲間で試行錯誤しましたが、力及ばず、学校との関わりや社会実践とはひとまず関わりがなくなりました。23年クールダウン期間をおいて、また関わりはじめました。クールダウン期間時にひとりで読書するなかで、やっぱり自分の方向性は間違っていない、自分が退く必要はない、もう一度チャレンジしようとシュタイナーハウスやフォーラムスリーに足を運ぶようになりました。

 

 引き続きの試行錯誤のなかで、アントロポゾフィー協会の理事、フリーペーパー375の立ち上げ、教員養成講座の運営など、今に至るミッションに出会いました。

そこでの活動の軸はまさに関心がある人に対してウェルカムな環境を作ることでした(協会での活動だけはほんとうに実りが薄く忸怩たる思いです)。

 

 375がわかりやすいですが、歴史的にグループの分裂が継続しているシュタイナー業界でどう共に進むことができるのか、ということが名前の由来でみんなでゴーを数字にして375が生まれました。和歌山のモモの会との出会いも375が大きかったと思います。

 

 教員養成講座ではスタッフチームでよく出ている言葉が「いい雰囲気」という言葉でした。文字通りウェルカムな雰囲気ですし、人が学び成長する雰囲気、非常に実のある、実のある雰囲気を共通認識として持てていたのがとても功を奏したんだとおもいます。そんな土壌に力を持った講師陣が講座を展開する、非常にいい結婚がこの教員養成講座ではできていると思います。毎回受講生の方々同士、私たちも含め、いいご縁をいただいていると実感します。

 

 そう、この雰囲気を持って学校運営できれば!!ほんとそう思います。

 

 ただこれはとても難しい。それはレストランであればコックさんとお客さんの間にいいフロアマネージャーが不可欠のように、学校にこのフロアマネージャー的な発想をいまだかつて持てていないことです。

 

 教える教えられる。その現場の土壌を豊かに保つ人が必要なんです。シュタイナーはこれも教師の仕事と考えていたんだと思います。ただ私が思うには、教師という職種に付こうとする人の多くが、実社会の経験が少なかったり、政治と一緒で親が先生や家族が先生や役所勤とかそいういう方向性が強いんだと思うんです。いわゆる公務員的な世界と、実業的な世界の橋渡しをすることがこれからの教育現場にはとても強く必要になって来ます。私たちの時代が牧歌的な世界から抜け出て、いままで考えもしなくてよかった種類の困難を多く抱えていて、それに対峙するにはひとりの人が教育によって今以上に育まれる必要があります。もっともっと社会性がひとりの人に必要とされて来ています。

 

 このフロアマネージャーは多分親がしていくんだと思います。ただそこを専門にする職員も必要かなと思います。今PTAを改めて考え直す動きがありますがそれも方向性は同じかなと思います。

 

 親が子どもの教育に仕事として関わっていくこと。ここがこれからの社会は必須です。そこの大きな鍵は、学校というくくりの中では、自分の子どもも他人の子どもも同じ家族のような対し方ができること。親のエゴを学校というくくりの中ではでしっかり客観視できること。それが、パレートの法則でないですが、親の二割、三割確実に必要になってきます。

 

 

 自分の相方が長女が年長さんの時、クラス運営でとても苦しい状況でした。その際、親のエゴを客観視出来ない、園と家庭の境界線を意識出来ない親が多数派だったのがその原因でした。去年長男の年中のクラスではそこが逆転で、園と家庭の境界線を客観的に見れる親が多数派だったんですね。ですから幾つか阿多難題にもチームプレーで取り組めていてました。今学校教育が大変っていいます。それを学校や国、先生に矛先を向けるケースが多々ありますが、いちばんダメージを与えられるのは親なんですよね。ここを踏まえてどう学校を作って行くのか。社会はこの課題を突きつけられていると思います。

 

 先生に問題があった場合、多くの大人が関わることで、ある程度客観性をもって判断を下せるケースもあると思いますが、親に問題があった場合、そこに介入していくことはとても難しい。先生は仕事で関わっている。親は生活の一部として子どもの学校生活をとらえている。ここは親も学校というくくりでは生活を抜け出して、社会の一員として関わる必要があります。ここのところの適性を問うことは私たちの社会ではありません。こういったことこそ、義務教育で必須科目だと思うんです。話は飛躍しますが例えばPTAって親だけでなく、その地域の子どもを持たない成人が関われるとかっていいとおもうんですよね。

 

 意識的な親の存在がこれからの教育現場の鍵になってくると思います。

 

 そんな中で、親がシュタイナーを信奉するような、依存するような形でなく、子ども向き合おうとしています。そんな試みが和歌山のとある場所で始まっている。私はとても期待しているし、私もどことなく期待されている部分があるので大いに期待に応えて行きたい!明日の会をとても心待ちにしています。


あんじょ〜

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想いを馳せる

オーストラリアに続きフランスでもイスラム過激派のテロが起こりました。

この事件に関しては、様々な見解がWebやSNSで見聞き出来ます。特に9・11の時と比べるとそういったものの発達から、イスラム教の人たちの立場の見解も多く触れることができるようになっています。

様々な立場、様々な見解。今回のように立場の相違から起こる惨劇にどう橋をかけるのか。

脱帽しちゃう話ですし、自分が生きている間で解決する問題でもない、長い長い時間推移していくもの。

グローバル社会みたいな話の中ではいろんなものがスピードアップしている話が多いのですが、こと人の思想信条的な部分はそう簡単に変化するもにではありません。

こういった大きな問いに10代後半から20代前半悶々としていたな。

今はその時と違って、家族や仕事を通して自分から働きかけることが沢山あるし、それを通して微力ながら相容れない立場の架け橋のワンピースにと願いを込めている。

その願いって今に私以上に悶々としていた若い頃の私の願いが、おじさんの私の意志に変容している気がします。

見た目より若く見られることが多いのですが、それは自分を突き動かしている大元がそういう若いところからきているからだからなのかもしれません。

そういった悶々とした頃の願いが下支えする仕事って目には見えないけれど沢山あります。

私の同僚の一人の話ですが、彼は同世代では出世頭的な立ち位置ですが、小学生の頃は全然目立たない子で色々悶々としていたらしく、中学生の時に自分からこのままじゃダメだって、自分をアクティブに変えていったそうです。

息子の担任の先生も、聞いた話ですが、自分が子どもの頃なかなか周囲と関われず、誰かに手助けてほしいなぁと子供心に思っていたそう。幼稚園で困っている子どもに手を差し伸べられるようでありたいと教員を目指したそうです。

たぶん誰しもそういった想い、願いが自分の働きかけの背中にあるんじゃないかな。

今回の事件は本当に沢山の思いが様々なメディアで伝えられています。発言者の背中にある想い、願い、発言者が代弁している人たちの想い、願いに想いを馳せたい。

こうやって様々な立場の人のコメントを見聞きできる今の時代を考えると、私たちの世界はそれなりによく前進しています。

大きな解決の糸口のひとつは、人が国や出自から自由になること。それにはやはり教育が核になります。やっぱり教育は自分にとってライフワークです。因果なもので最初に書いたなりたい職業は先生だったんですよね。

それではまた次回。
あんじょ〜
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ブックレコメン①


スマホ時代の情報との付き合い方〜
 
Web2.0 ですげーって盛り上がっていたのが2006年頃ですから、ほぼあれから10年弱。メディアではかなり盛り上がっていた割には一般の私のような人間には実際強烈な変化はさほどなかったような気がします。

しかしここ1、2年でネットワークの中心がPCからスマホ→アプリに主導権が移行しつつあるなか、世間一般にようやくWeb2.0を実感するような変化が目に見えるような変化を起こしています。

新聞や雑誌の凋落はご存知の方も多いかと思いますが、クールジャパンの一角を占める漫画も、電子書籍で読む時代になってきています。今まで分散していた媒体がスマートフォン一つにかなり集約されつつある。

私個人もAmazonでの通販利用はPC以上にスマホから購入の割合の方が多くなりなした。お金の決済もLINE Payの登場でスマホでの決済にいっそうの拍車がかかりそうな状況です。

しかし、スマホ一台でかなりの事が出来るようになって便利な反面、スマホに対する依存度も想像以上に高くなっています。
 
ちょっと前にスマホを子どもに持たせる前に親子で使用契約書を交わすことが話題になっていましたが、私たち大人も、自分自身との間で、何らかの取り決め、約束事を交わした方がいいくらい依存度が高い。不用意に時間を浪費する媒体にもなっていると思います。そう言えばちょっと前はテレビがそう言う悪役を担っていましたよね。
 
どんな時代にも新しいものとの付き合い方を指南するものは出てくると思いますが、スマホFacebookTwitterなどのSNS全盛時代に向けての指南書にあたるのがこの本。

個人的には渡辺由佳里さんの「ゆるく、自由に、そして有意義に──ストレスフリー•ツイッター術」を読みTwitterを始めたので、私個人としてはそちらの本に、メディアとの付き合い指南は、負うところも多いですが、本書がマインドフルネスなど「サーチ! 富と幸福を高める自己探索メソッド」などでも紹介されているGoogleが実施している研修プログラムとも方向性を一致させているところ。またタイトルにあるようIT畑のエグゼクティブの多くも、情報の渦に日々取り込まれている現代人の生活に、精神的な静寂の必要性を感じていることを紹介していることなど、スマホ全盛期に入った今、多くの人の興味をそそる内容なのではないかと思います。
 
面白いなと思うには、最近スティーブ・ジョブスのステイハングリー、ステイフーリッシュの言葉が、The Whole Earth Catalog の最終号のキャッチコピーからの引用で、話題になっていましたが、60、70年代のカウンターカルチャーの遺伝子を、アップルも、今のITカルチャーも受け継いでいるんだと思います。あのカウンターカルチャーの時代も、時代が変わる期待感がとてもあった時代だと思います。

変わったと言えば変わりましたが、カウンターカルチャーの子どもたちが変えたいと思った現実と同じ種類の現実が新たな形で現れています。
 
こういった時代に即した精神修養はいつの時代もその時代のエスタブリッシュメントが修養するものですので、通例、一般の人までは降りてこないことが多いと思います。そんな精神修養が60年代、70年代のカウンターカルチャー〜ニューエイジムウーブメンントの中では、いにしえの精神修養からLSDを使った意識の拡張などがポップに流布していました。

そんな流れと似ているのか、GoogleAmazonAppleFacebookなどのITジャイアントが引き起こす新たなムウーブメンントの中で、今の時代に望まれる精神修養が、ぽつぽつと発信され始めています。ニューエイジの時よりももっとダウングレードされた形で。それだけ今回のITジャイアントの起こしている変革が一般の人々隅々間で及んでいる証拠でもあります。手軽に買える一冊になっているというのも、21世紀ならではということなんです。

いつの時代も権力を持つもの、力を持つものと持たざるものの、様々な関係が世界の世間を満たしているわけですが、この時代が、少しカラーが違うとしたらやはり個人の力の可能性が、以前の時代と比べて、比べものにならない程、広がっていることだと思います。21世紀の本質的な精神修養のための一冊として、関心のある人は是非お手にとっていただければと思います。

シンプル・ライフ 世界のエグゼクティブに学ぶストレスフリーな働き方

ソレン・ゴールドハマー著  出版:翔泳社

あんじょ〜
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これからの子どもともどもライフ①

 〜母業=年収1200万!!〜



教育ということばは、今までの教育だったり、歴史的な事、常識的なことを引きずってしまい、なかなか人に伝えようとした時に的を得たことばになりません。



ひとつの側面を際だたせると、生まれた家族や家族的なところから20前後で自立するまで、親や社会が子どもを自立したひとりの人としてのスタート地点まで、曲がりなりにも立たせることだと思います。

 

そういう意味でこれから子どもとの生活は大きく変化して行くと思います。既に私が生まれた1970年代の頃の子どもとの生活から今の2010年代の子どもとの生活も大きく変わっていますし、その流れはIT技術を中心とした技術革新の影響の中、さらに大きなもになるでしょう。

 

都市部で生活している人を中心に、子どもをぽーんと外に放り出して、遊ばせられるような状況は既に多くの家族に無くなっているのではないでしょうか。また近所や学校クラスの子どもたちと放課後あそぶようなところも、多くの子どもが習い事、塾などに通う中で難しくなっているようです。

 

友達と遊ぶということ自体も、親や社会が少しづつ手入れして行くような時代がやって来ています。私が子どもの頃から考えると大変面倒な話ですし、それを親や社会が配慮しろというのも本当に新しい課題だなと思います。しかも、子どもの成長にとって親の過度な配慮は邪魔でしかなく、案配加減がとっても重要になってきます。

 

子どもの教育という事が、子どもと共にある大人のあり方にまで、教育的、協働的な配慮が必要になってきた時代が21世紀に現れました。これからははっきりと子育ての仕込み、準備段階として親になるということが、教育的に、社会的に問われると思いますし、そういった社会機構はこれから常識的な存在になると思います。



昔が良かったなんていう回顧趣味は偏った見方で、衣食住足りて礼節を知るという意味では、子どもの生活環境は安全になっているのは確かですし、とても評価すべきところ。ただ、核家族、個家族化した家庭環境の中で、両親、特に母親への子育ての過度な負担が大きな課題なっているのが現状なんだと思います。現場の一人としてはっきり言えるのは、今の母業をきちっとこなす、マネジメントするには、一般企業でいえば、優秀な管理職的な素養が必要になります。乳児期の子を持っ母親の母業を年収換算すると1200万円というレポートが以前ありましたが、ほんと伊達じゃなくそのぐらいの過酷な仕事でもあります。



ママを応援、ママをバックアップするパパも援護射撃、そして子育てに関わる親、教育関係者、地域社会と改めてネットワーク、協働作業が必要に差し迫られています。シュタイナー教育ってここのポジションにどんな働きかけが出来るんでしょうか?



それではまた次回。

あんじょ〜
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